多摩川クラブ

 ~二つの古墳公園を巡って~ 
 六月二日、昨日の梅雨の前触れから一転し、晴れた空の下気持ち良く狛江の古墳を巡った。 和泉多摩川駅に集合、整備された「ぽかぽか広場」の脇を通って古墳公園に向かった。狛江古墳群の中で最も新しい時代の小川塚古墳は、二階建ての住宅に囲まれてひっそりとしている。 亀塚古墳も周囲を削り取られて住宅に囲まれてしまっているが、残った円墳部と環濠部 が整備されて古墳公園になっている。その頂上で記念写真を撮った。 目的を終了し、旧道(鎌倉道)と松原通りや、六郷用水の話をしながら狛江駅ロータリー近くの駄倉塚古墳に着く。明治時代には、山頂の松の木に天気予報の旗が掲げられ、それが喜多見から見えたとの事。 小田急の高架下のミニブルワリー でランチ、空いていたが時間とともに人が多くなりコロナも一段落か? ビールを楽しみワインの試飲も楽しんで、午前の部で解散となった。(牛尼 進)

頂上の徳富蘇峰の揮毫石碑の前にて


山下裕  牛尼    津村、 西川
   
多摩川クラブ 解説
 「クラブ活動、サロン活動はできるところから、順次進める」との総会での会長の意向に合わせて、多摩川クラブも活動を開始した。当日は、前日の重い蒸し暑さも一転して、青く晴れた空の下風も涼しく、気持ち良い一日を楽しんだ。
  和泉多摩川駅に集合し、はじめからコースを変更して「4日にオープンセレモニー」が予定されている商店街の再開発に整備された「ぽかぽか広場」を見ながら目的地に向かう。猪方小川塚古墳公園は、発掘された横穴式石室を見学できる公園だが、二階建ての住宅に囲まれてひっそりとしている。石室は多摩川からの泥岩を現地加工して造られている。狛江古墳群から100年ほど後の古墳で7世紀中頃の築造です 農家の前の朝採れの「枝豆」に初夏を感じながら住宅街を駅の方に戻り、玉泉寺に着く。この寺は、634年(舒明天皇六甲午年)に多摩川の対岸に大輪寺として開かれたが、度重なる多摩川の洪水に巻き込まれ1504年に現在の地へ移り、その後現在の玉泉寺になった。御本尊は創建からの薬師如来像で12年に1度、寅年にご開帳になるとのことで、11月と張り紙があった。 鎌倉道と伝承される道を進み、次の目的地、亀塚古墳公園に着く。ここは、市内唯一の帆立貝形の前方後円墳として狛江屈指の規模を誇っていたが、住宅開発の波にのまれて往時の姿を殆ど留めない。残された墳丘部と周溝の一部が公園として整備されたのはつい最近のことである。発掘調査(1951年)では、神人歌舞画像(銅)鏡、直刀、様々な馬具などの副葬品のほか、円柱埴輪、人物埴輪、馬形埴輪などが発見され、描かれた画像の高句麗との類似性が狛江と渡来人とを結びつける根拠の一つとされた。今は、多摩中流域の盟主墳と考えられている。
 鎌倉橋跡を見て、六郷用水と鎌倉道の交点「田中橋」に出る。ここから御台橋までの松原通が直線なのは、江戸時代の石谷家の馬場の名残です。馬場の脇に松が植えてあり松原の地名が残った。石谷家の菩提寺「泉龍寺」を経て、経塚古墳を左手奥に見てから、狛江ロータリーに面した不動産屋を抜けると駄倉塚古墳に着く。裏を通るのは筏道と呼ばれた古くからの道です。登ると小さな社がありさらに頂上には松の木に囲まれて日清戦争の碑がある。明治時代には、山頂の松の木に天気予報の旗が掲げられ、それが喜多見から見えたとの話が伝わる。
 以上で、午前の予定地はすべて巡った。野川緑道同を左に見て、小田急線沿いに歩き、電研からの道の小田急高架下のミニブルワリーでランチ、はじめは空いていたが時間とともに人が多くなりコロナも一段落しているとの実感。ランチビールの他2種類ほどのクラフトビールを楽しみワインの試飲の後、午前の部のみで解散となった。 (牛尼 進)
inserted by FC2 system